シナイ半島・モーゼ山に行ってきたよ!(Day 2nd.)
ホロコーストメモリアルデーについての記事を挟みましたが、
シナイの旅2日目と3日目を書きたいと思います。
【朝 チャイとピタ】
簡素な庵で起きた二日日目の朝は、谷間の放射冷却のせいか、
かなり冷え込んでいました。用を足すために、裏の崖を少し登ります。
山の間から陽の光が差し込み、徐々に谷間へ進んでいくのが
はっきりとわかります。 あたりは完全に静まり返り、空はどこまでも青く
澄み渡り、はるか上空を飛行機がまるで滑るように音もなく飛んでいくのが
よく見えています。
シナイの山々は堂々としている まるで剱岳のよう
庵に戻りイブラヒムを起こさぬよう、荷物を整頓するために外へ出します。
そのうちパートナーとイブラヒムもぼちぼち起きてきたので、朝のチャイのため火を起こします。
そうしているとまたどこからともなくベドウィンが一人、またひとりと
集まってきます。みなラクダかロバを連れて荷物をどこかに運ぶ途中のようです。
おそらく人生初のラクダとの交流
谷間を通りすがっていくベドウィンが一体何の仕事をしに行くのかイブラヒムに聞いても結局最後まで詳しく分かりませんでした。
捨てられた空き缶もヤカンとして駆使するイブラヒム
世間話をしていたイブラヒムは突然徐ろに小麦粉を練りだしました...( ̄Д ̄)ノ
雑貨屋で買わなかったので、彼はどうやら持参していたそうです。
ボールも使わず板の上だけでこねていき、引きちぎり伸ばし鉄板の
上でピタを次々に焼いていく様子は器用の一言に尽きます。
5日目の昼ごはんまでこの時作られたピタを食べました(^ω^)
庵で泊まらせてもらったのでイブラヒムの友人に宿泊代を渡します。
ひとり20ポンド(100円)でした。
この日は峠越えをするためしっかり食べてから10時前に出発しました。
そういえば昨晩にイブラヒムに予定を聞いたら「8時頃には出発しようかのアッラーフワクバル」と言っていたっけ.....
【峠越えへ】
イブラヒム先導のもと、トレッキングへ出発します。
「ここの道は大昔からベドウィンにとって村と村をつなぐ道で大事だ。
今も使われているし、ガイドとしてもう何回も通っている。日本人を連れてきたこともこれまでにたくさんあるで。」と話すイブラヒム。
実際、井戸や石垣を組んで家畜を離したり、小さな庭らしきものをたくさん
目にしました。これら数百年前にはちゃんとベドウィンの所有者がいて使用されていたものとのことです。
1時間ほど歩いたところでチャイにしようという。
その辺に落ちてるヤシの枝を燃やして、拾ったコーラの空き缶の上部を切り取り
ヤカン代わりにします。
イブラヒムを見ていると大して上等な装備をしてはいないし、いろんな道具を持っているわけでもないのに何も不自由せず、必要最低限のものだけを使用し、無ければ作り、工夫するベドウィンのミニマリスト代表に思えてきます。
谷間で気温が上がらず山水でところによっては氷が張っていたり小さな氷瀑を見つけたりと自然の景色を楽しんでいるうちに、峠を越えました。
そこにはイブラヒムがかつて父親と造築をし手を入れてきた小さな果樹園兼休憩場所が
ありました。
朝焼いたピタにツナや野菜、アボガド、マヨなどを巻きまきしランチタイム。
山の中には自分たちしかおらず、どこまでいっても静寂そのもの。
直射日光は強いですが、心地よく冷たい山の風が吹いているためあまり疲れません。
イブラヒムはよっこらせと焚き火近くのカバンを手繰り寄せ、嬉しそうに
巻きタバコをクルクルし始めます。
軽くて保存が効き腹持ちのいいピタ
何でも好きなものを乗せて食べられる懐の広い中東食!
【宿へ】
たっぷりと2時間ほど休憩をし、そろそろこの日の宿泊場所へと向かいます。
イブラヒム曰くさほど遠くないということで、赤山に囲まれた谷間を歩いてまだ20分ほど、今日はここまで!という感じで彼が荷物を下ろすので着きました。
本日の宿はなんとプライベートの離れ庵付き!焚き火場所プラス毛布多数完備!
家畜を繋いでおくスペースもありました。使いませんが...
さすがイブラヒムもナイフの使い方に慣れている♪
一息ついたらまずは水汲みをしたら、夕飯の準備開始。
自分も料理は幼少期より好きなので、野菜切ったり炒めたり色々と手伝います。
今日のメインはエジプトスパム入り炊き込みご飯(^з^)-☆
煙とともに野菜とスパムのいい匂いがたまりません。
今かいまかと炊けるのを待って30,40分ほど、
「そろそろもういいんじゃないですかねイブラヒム?」
と聞くと、
「いやまだまだだインシャアッラー」( ̄Д ̄)ノ
たまに蓋を開けてみるともう絶対炊けていそうなのに、
まだと言い張るイブラヒム。
こちらはもうペコペコです....
因みにイスラム世界でよく耳にするこの「インシャアッラー」というフレーズ。
アラビア語で「もしアッラー(唯一神)が望むなら」という意味でして、
良心的に訳すと。
「人間としてできることはするけど、うまくいくかどうかは神のみぞ知る」というニュアンスになります。
ご飯が炊けている間に静かに日が暮れていく...
日が落ち、完全な闇に谷間が包まれるとあとはもう焚き火のパチパチとした
音と明るいものは炎しか無く、原始の世界観に引き込まれていきます。
イブラヒムは時折ベドウィンの歌を歌い、空には徐々に星の数が増えていき天の川が谷間を横断しているのがよく見えます。
イスラエルからシナイに来てまだ2日目なのにもう随分と長い旅をしている錯覚を覚えます。おそらく文明社会から遠く離れた大自然の中でほとんど人にも会わず、旅というより生きていく上で最低限の事しかしていなからだと思います。
起きて、火を起こす、食べて、歩いて、休んで、食べて、寝る。
このベドウィンのシンプル且つ原始的なスタイルにどっぷりハマっていくのを
肌で感じます。
ホロコースト・メモリアルデイ
ヨム・ハショア
ホロコースト・メモリアルデイ
4月24日の今日はイスラエルでは、ナチスによりユダヤ人の大虐殺を追悼する
ホロコーストメモリアルデイでした。
午前10時には全国で2分間サイレンが鳴り響き、黙祷を捧げました。
ナツメヤシ農園でも、全ての作業を止め、機械の上で働いている人は下まで降りしばし静寂な時間が流れました。
1週間レベルでラジオも全てのチャンネルからコマーシャルは消え、一日中静かめな音楽が流れ続けています。
チャンネルによってはホロコースト生還者による体験談を聞けることもあるそうです。
昨日23日は、自分たち国際ボランティアに対しキブツメンバー二人がこの日がどういう意味、教訓を人々に与えてくれるのか、
またメンバーの一人は彼の母親がアウシュビッツからの生還者であることから、彼女から聞いた話などを語ってくれました。
少しキブツメンバーから聞いた、話を記したいと思います。
一人のメンバーの母親は、終戦が近づいて来た時期にアウシュビッツに送られたそうです。それまではナチスが収容所を管理していましたが、戦況が悪化してきたため管理の一部をハンガリー人に任せることにしたそうです。ナチスが管理をしていた頃は、収容する全てのユダヤ人の腕に番号を刺青で入れていましたが、大量に送られてくるユダヤ人を捌ききれなくなってきたことと、
いずれガス室送り等にするつもりだったこともあり、番号を入れなかったそうです。しかし、戦争が終結しソ連軍が収容所を解放したあと、連合国軍側に助けられた彼女はイスラエル建国後、決死の思いでイスラエルに船で渡ってきたそうです。その後、若者によるキブツ運動の中、自らもキブツを創設したそうですが腕に番号が無かったため周囲はアウシュビッツから生還したとは信じなかったそうです。このことにより彼女は家族にも戦争や収容所の体験を一切語ることは無かったとのことです。しかし、彼女が85歳の時、再びアウシュビッツを息子と訪れた際、上記の様な過去に起きたことを話し始めたと言います。
もう一人のキブツメンバーは私のホストファザーでした。
彼の育ったキブツにも腕に番号があるメンバーがいたそうです。
彼の父親は、欧州から出る南米向けのほぼ最後の船でなんとか戦火と虐殺の惨劇から逃れることができたそうです。
彼のキブツメンバーのある女性も生還者でしたが、壮絶な経験をしたことから何十年経ってもトラウマは消えることはなかったそうです。
彼女はモーターバイクの音が聞こえると、物陰に隠れパニック状態になったと言います。その音はかつて自分たち女性を娼婦のように扱うナチスの上官が乗ってやってくる記憶を呼び起こすからだということでした。
メモリアルデーについて二人とも言っていました、
「過去の大虐殺で犠牲になった人々を偲ぶことはもちろん大切だが、それよりも二度とあのような残虐行為に及ぶ人間に誰一人としてなってはいけない。みな『人間』にならなくてはいけない。ということを毎年思い返すための日だ。」
6百万人が犠牲になったと言われるユダヤ人の追悼するため各家や公共の場でも6個の火が灯されます
そしてサマールでは昨夜、子供から大人までほぼキブツメンバー全員が集合し、自分自信の思いや両親・親族の体験談、高校生の時アウシュビッツ収容所を訪れた時に感じたことなどを語り合う集会がありました。
集会でも感じましたがイスラエルに来て以降、常に思うことがあります。自分の両親がどこの出身であろうが、ユダヤ教徒であろうがなかろうが、自国の歴史や平和問題等に関して自分の思いや考えを話すとき、誰からも強い意思やそれぞれの特別な感情が込もっているように思います。
この国は、日本社会とは比較すら困難なほど多様な問題を抱えすぎていると思います。イスラエルに住むということは、男女の兵役、テロ事件、隣国からの攻撃、中東情勢、宗教間の軋轢や争い、文化間の衝突、同民族間による政治的論争、これらが原因となり絶え間なく続く悲しみと憎しみの連鎖….
これら全てに誰もが触れざる得ない、考えざると得ない、もしくは当事者になる可能性を抱えながら日々の生活を送るということです。
最後に我々ボランティアに対して、回答する必要は無いという条件付きで以下の質問をされました。
「あなたは軍からあるテロリストを捕獲する任務を任された指揮官です。自分の指揮する兵士を連れて、そのテロリストが家族と暮らす家に向かいます。居間には彼と彼の子供たちや妻、両親が団欒の時間を過ごしている時に突入しました。あなたは指揮官として部下の命を守る責任とテロリストを確保する任務がある中でテロリストは自分たちに銃を向けようとしています。今にも応戦しなければ部下が撃たれ死亡する危険性があり、自分は生き残っても部下を守ることができなかった責任を軍法会議で問われ刑務所に入る可能性もあります。
仮に銃撃戦になり自分あるいは部下が罪のない妻や子供を誤って打ったとしても指揮官としての責任を問われ軍法会議にかけられます。
この時、あなたならどうしますか?」
シナイ半島・モーゼ山に行ってきたよ!(Day 1st.)
先週の4月中旬にイスラエルでは、ユダヤ教でも重要な歴史的出来事、モーセの出エジプトに因むお祭りペサハ(Pesach):過越祭に伴う大型連休が明け、再び国中は平常通りに戻りました。
子供たちは2週間半という長期の休みをもらい、プラス大人たちもそれに合わせ休暇を取るため全国で帰省ラッシュや観光などでどこへ行っても渋滞や大混雑という
まるで日本のGWやお盆休みのような状況でした。
因みに兵役中の若者も休みが取れるらしく、実家でリラックスしたり友人と会ったり、あるいは砂漠にトレッキングへ出かけたりなどして束の間の休息期間を過ごします。
さて、本題ですが、キブツから6日間の休暇をもらい色々と危険な事案や噂が絶えないシナイ半島に行きました。
それももう一月中旬のことですが( ̄Д ̄)ノ
ということで備忘録も兼ねて見たもの聞いたもの感じたものを記したいと思います。
大雑把に分けて...
越境(イスラエル・エイラットからエジプト・タバ)
⬇︎
セントカトリーナ市(トレッキング開始)
⬇︎
⬇︎
帰国
の順番に進んでいきたいと思います。
【越境】
実は自分、越境はこれまで空路か船舶だけで徒歩で国境を渡るという経験を
したことがありませんでした。
ということで、朝からテンションを上げつつちゃっちゃと国境すぐ隣まで
バスで向かいます。
しかし1月という完全な観光の閑散期とシナイの情勢が良くないことが重なり
全く自分たち以外に観光客がいない!税関や警備の人しかいない!
Duty Freeのお店のおばさんも手続きをするデスクのお姉さんも
スマホを見るばかりで完全に静まり返っていました...
まぁこんなものかとテンションも下がります(; ̄ェ ̄)
とにかく出国税の102シェケルを払い、幾つかの検問を抜けます。
そしていつ国境を超えたかもわからないうちにエジプト側のターミナルが
見えてきます。
荷物検査器を通り、パスポートにスタンプを押してもらい
ようやく入国した感が湧いてきました。
越境に20分程かけ無事エジプトへ入国完了!
最後のゲートを出たところで、行く前からキブツの友達のつてで
事前に連絡を取っていたTaxiの運ちゃんハメッドへ合流します。
他にもドライバーはいて暇そうに観光客が来るのを待っていましたが、
「ハメッドはいる〜〜??」
と叫ぶと俺だ俺だ!といわんばかりに出てきたので、
他のドライバーたちはちょっとしけた感じが漂っていましたd( ̄  ̄)
【セントカトリーナ市へ】
早速トヨタHIACE VANに乗り込みモーセ山と修道院があるセントカトリーナ市へ
向かいます。
国境を離れるために行き先や乗員を書いた書類を提出するハメッド
役人は何かボードゲームに興じていた...
とりあえずサウジアラビアが対岸に見える海岸線をガンガンと車を飛ばし、
南下しますが、途中何回も軍の検問を通過しその度にパスポートを見せます。
エジプトでは軍施設や兵士を撮ろうとすると問題になり、最悪捕まったりするという事前情報を得ていたので写真はありません。
笑顔とアッサラームアライクムッ!でカラシニコフをぶら下げる兵士と言葉を交わします。
山羊とベドウィン
途中景色が良いところでわざわざ車を止めてくれるハメッド
3時間のドライブで軍の検問を合計10回弱通過し、ようやくセントカトリーナ市に
着きましたが、ここはモーゼ山も含め広大な国立公園です。
...という事実を知らなかったので、入園料を支払うようにハメッドから言われた時は
「あぁ入園料がいるんか?!そんでいくら??」という感じで少し驚いてしまいました。
一人25エジプトポンド(約125円)を払いました。
シナイ半島の南部は砂漠ではなく赤い山々が延々と続く山岳地帯。
首都カイロからははるか遠く、間近にそびえ立つ山々に囲まれていると、もはやエジプトにいるという感じは全くなく、世界の果て、辺境の地に来たという気持ちになります。そんな厳しい環境の中で谷間や山間に村を築き、大昔から暮らしてきたベドウィンたちはエジプト人と言うより彼らはあくまでもベドウィン。「砂漠・山岳の民」であり、独特の文化や考え、生活の質を何千年も保ちながら細々と生活を送っているように思えます。
【Fox Campに到着】
ハメッド友人らの溜まり場所になっているFox Campという、キャンプ場兼Guest Houseのような場所に着くなり、早速多くのベドウィンたちにチャイで出迎えられます。
砂漠街道を突っ走りFox Campに到着!
チャイで世間話をするベドウィンら
「どこから来た?」
「何日シナイにはいるんだ?」
「どこに行きたいんだ?」
「モーゼ山からの朝日は格別だぞ!だけどイン シャアッラー!」
という感じできますが、こちらも負けじと地図を広げながら予定を伝えようとしたところに出てきたのが、ハメッドの仕事上のボス、ジュメア登場。
彼が現れ地図を見るやいなや...
「6日間の日程ならここから、こう山に入って行って、谷間にアマリーヤという女性が住んでいるから宿泊可能で云々カンヌン.....そんで最終日にモーセ山で日の出見て11:00に下山して、国境まで送るからな!よしっ出発!」
とまぁあっという間にサクサクっと決めてくれました。
結局彼のプランは歩く行程に無理がなく、景色のポイントもしっかり押さえ、半ば強引だったものの後々頼んで良かったなと思えるものでした。
これ以降、我々は彼のことを『監督』と呼ぶことにしました。
【トレッキング開始】
トレッキングの行程が決まったところで、自分たちのガイド、イブラヒムが何処からとも無く出てきます。
彼は50歳のベテランガイド。幼い頃からロバやラクダを連れ村々へ荷物運びをしたり、ガイドでは多くの観光客を山岳地帯へと案内し、周辺の地理を熟知し、植物や動物にも詳しいためまるで狩猟をしないマタギのような人でした。
早速、6日間3人分食料の買い出しに出かけます。
ここでも監督が手慣れた感じであれやこれやとイブ爺に指示をして買い込んでいきます。
左:監督ジュメア 右:ガイド イブラヒム
こんなに大量に買っても約1600円という物価の安さ!
食料を監督の車に積み、出発地点でありイブラヒムの自宅もある村へ出発。
イブ爺の娘さんと奥さんにチャイでもてなされ前半三日分の食料のみを
選別します。
残りの食料は息子ムハンマドがロバで宿営場所まで届けてくれると言います。
娘と奥さんにキブツのナツメヤシを少しおすそ分けし、いよいよ出発です。
空気は澄み、空はどこまでも青く、険しく赤い山が延々と続いています。
時折、ロバや山羊を連れている子供たちが物珍しそうにこっちを見てきますが、
挨拶すると恥ずかしがり気味にアライクムアッサラームとちゃんと応えてくれます。
こんなのどかで静かな場所にいるととてもイスラエルとエジプト同士がいがみ合っていたり、ISがシナイ北部でテロ活動をしているという現実がまるで嘘のように思えます。
出発から10分程度で急にイブ爺が「祈りを捧げるからちょっと待ってもらえないか?」
と言いました。
実はイブ爺は経験なイスラム教徒、1日5回のお祈りを毎日欠かしませんでした。
因みに5回とは、朝5時、正午、午後15時、17時、19時。
また事あるごとに、
「アッラーハンブレラ!(神のご加護を)」
と叫んでいました。
【宿へ到着】
山岳地帯の谷間にはヤシの木が生え、ベドウィンの個人の果樹園などが整備されていた
小さな峠を越え、谷間へ下りしばらく歩いていると庵のようなものがポツポツを現れ出しました、そしてイブ爺が
「今日はここに泊まるでなアッラーハイ!!!」
と言いい到着したのは崖に隣接した石と粘土とヤシの木の枝葉で、
できた質素な庵でした。
「ここは友人、アブラハムのものだけど気にせず使ってくれ。
あとここにケシの芽も生えてるでなアッラーハンブレラ!!!」
とのんきな感じのイブラヒム。
こちらも早朝から国境越えや長距離移動と疲れていたのでホッとしました。
頼もしいイブラヒム!!!
早速、この日の薪拾いに出かけます。
イブ爺は鋭く、しかも毒まであるナツメヤシの棘の茂みなど全く気にせず分け入り、素手でメキメキと枯れ枝を折りだします。
棘の毒がどれほど厄介なものなのか、農園で働いている自分はよく知っているので
もうイブ爺への尊敬の意を示さずにはいられません。
何処からともなく現れたベドウィンの子供らに蒔運びを手伝ってもらう👍
ベドウィンはどんな時もまずは一杯のチャイから行動を開始します。
イブ爺も夕飯の準備をぼちぼちと始めます....
狭いが作りや機能はシンプルで居心地の良い庵
静かに夜が更けていく....
谷間から覗いていた陽はあっという間に崖裏へと落ち、星が輝き出し、
焚き火があたりを一層明るくします。
炭の煤で真っ黒になった金属製のお椀に野菜たくさんのスープを啜い、時折歌いだす
イブ爺の歌声に耳を傾けると、なんだか全く別の惑星にでも来たかのような錯覚がします。
庵内でも焚き火を囲み、周囲にシュラフを並べてウトウトウト💤
明日は長い距離を歩くので、早めに就寝...
体力を温存します。
Day 2nd.3rd.へ続く...
砂漠のトレッキングをしてきたよ!途中熱に侵されながら...(・Д・)ノ Final Day!
トレッキングもようやく最終日。
エイラットまでの距離も残すところあと8,9kmとなったDay Final。
一晩前から急に体調を崩し、咳と頭痛にうなされながら一夜を明けました。
風邪です。こともあろうことか砂漠のど真ん中で風邪を引いてしまいました。
心配したハベリーム(友達)は薬や水を持ってきてくれました(涙)
なんとか起き上がりますがフラフラで食欲は無く、
朝食はお茶しか飲めませんでした(´・Д・)」
こんな状態でトレッキングを続けるのも本当に無謀だとも思いましたが、
折角ここまで来たからと言う気持ちでなんとか歩き出します!
暑いはずなのに寒気を感じながら峠を越えに行きます!!! (T ^ T)
風邪を引いたり、病で床に臥せっていたりしている様な身体が通常の状態ではない時、
普段考えない様な事が頭に浮かんだり、思い出したりすることって無いでしょうか?
みなに遅れを取りつつも必死の思いで渓谷の中を歩いていた時、一人様々なことを考えていました。
日本で働いていた時のこと...
イスラエルに来てからのこと...
これから自分はどういう人生にしていきたいかということなどetc...
そんなことを考えていたら前の方でなんだかワイワイやってるのが見えました。
なんだろうと思うと、友達がいつからあるか分からない水溜りにザブンしてます!!!!👇
こっちのひとはこんなことばかりやってます!
さてそうこうしてるうちに渓谷も通り抜けいよいよ峠越えです。
この時の登りが本当に死にそうなくらいキツかったです。
多分熱はあったし、身体は怠いし、頭痛はするし、咳は止まらないし....
それでも自分でなんとか歩かないことには前に進みません!
強靭とは言わないまでも、体力のある身体に育ててくれた親に心から感謝です(T ^ T)
やっとの思いで峠を登り切り、休憩します。
直ぐさまザックにもたれて出発するまでとりあえず寝ます!!
休憩時は食べてエネルギー補給よりも寝ることに専念することにしました!!!!
ようやくあとは下るだけ.....
下りきったところで昼の大休憩です。
またまた褐色の谷間で思いおもいに身体を休めます。
自分は腰を下ろすやいなや再び仮眠を取ります。
よくそんなところで休憩できるなー
危なさを超えてむしろ感心してしまいます
どれくらい眠ったかわかりませんが、そろそろ行くぞいと起こされました。
エイラットまではもう少しです。
よく寝たせいか少し体調も回復したように感じます。
昨日に引き続き何千万年という年月をかけて雨で浸食してできた
渓谷を降りていきます。
ところどころ湿っていたり、わずかに水溜りが残っていたりしていて、
こういう場所では砂漠の動物、アイベックスが水を飲みに来ます。
そろそろ体力も限界に近づいてきましたよ......
渓谷を抜け平坦な場所をひたすら歩いていると何やら近づいてくるものが見えます。
何と迎えのバスがガンガン走ってくるではありませんか!!!
こんなとこまでバスが来てくれるなんてさすがだなー
ヤッタ!とにかく歩き切りました!安心感と疲れで座ってすぐ眠りこけました....
気がつくとエイラットのビーチに到着。
そこにはサマールのスタッフが大きな天幕を張ってビールやスナック菓子を
用意してくれていました(=´∀`)人(´∀`=)
みなと言葉を交わしビールを飲みます。
紅海には風が吹き、海面は小刻みに波打っています。
トレッキングの機会をくれたキブツ、雄大な砂漠の景色、
風邪の自分を助けてくれたハベリーム、毎日食材を運んでくれたスタッフ、
海を見つめながら感謝の気持ちで心が満たされるのを感じます。
トダ ラバラバー!
砂漠のトレッキングをしてきたよ!途中熱に侵されながら...(・Д・)ノ Day 3rd.
シャバットシャローム!
土曜日の今日はイスラエルではシャバット安息日です。
なので挨拶もシャロームにシャバットを付けます。
もともとシャロームとは「平和」という意味なので、「平和な安息日を!」という
挨拶になるわけですね。
さて、トレッキングDay 3rd.もちろんこの日もみな自由な感じで起き出します。
自分はまだ暗いうちに朝のトイレを済ませました。
ベースキャンプの全体風景 その1
ベースキャンプ全体風景 その2
起床時間も何にも決まってない砂漠での自由な目覚め!!!
さてこの日の朝食は、昨晩の残りのピタパンに目玉焼きとか野菜とかを挟んで
クルクル巻いてかぶりつくというどこかのファーストフードチェーンでも出るようなメニュー。
しかし、こっちの方が健康的です。変な化学調味料は入ってないし、野菜はオーガニックだし、街中で食べるのとはわけが違うのし....etc 👇
こんな感じでみな思いおもいに朝食を食べ、その日のサンドを作っていると
気がつけばもう勝手に何人か砂漠の彼方へ歩き出していってます。
ここはイスラエル。砂漠のトレッキング。
出発時間も特に決まってないので好き勝手に行動できちゃうんです。
取っていいのは写真だけなんてこともありません、何千万年前の化石もクリスタル石も
ゴロゴロと取りたい放題。
先頭集団と最後尾とは2キロ近く離れちゃってます
休憩中はこっちの10代の若者にヘブライ語を教えてもらったりします
3日目はガレ場を登ったり、枯れた渓谷の中を歩くのがメインでした。
そして山登りも。
しかし、ガレ場も渓谷もどれも何千万年という時間をかけて滅多に降らない砂漠の
雨が少しずつ削っていったものばかり。砂漠の中を歩くということは、まさに
地球の歴史そのものの証人になることができるという感覚です。
雨が降れば川になり大地を少しずつ削っていく
ガレ場と呼ぶには巨大すぎる巨岩ばかりがゴロゴロ
こういった渓谷をひたすら歩き、登り、岩を越えていくと開けた場所に出ました。
そこには野生のヤシの木が自生をしていて陰もできていたので、長時間休憩をとります。しかし、このあたりから原因不明の咳がやたら出るようになり、食欲も失っていきました。ただまだこの時は体調も良かったので、暑さには萎えますが峠を越えに歩き出します。
そして、この峠からの景色が素晴らしかったです。
木は一本も生えておらず、ただ砂と荒涼とした山しか見えない無機質な大地なのに、
その無機質さゆえ余計に迫ってくるように見えます。迫力があるしか言えない景色。
鉄塔など人工物が何もないおかげで原始の砂漠の荒々しさを全身で感じることができます。
砂漠と言っても白黒、茶色、赤色など様々な色彩が見られます
崖っぷちでも休憩
この峠から一気に下っていくとさらに赤褐色の一帯があり、その裏の風通しの良い
谷間でまた休憩です。まるでスターウォーズに出てきそうな自然の休憩場所。
自由行動です。
この山の裏を右端の途切れるところまで渓谷を下る
昼寝するのも、砂遊びするのも、崖を登るのも何しても自由!
友達はこんな窪みで休憩
最高の休憩場所でした。でも咳はなかなか止まりません。
でもあとは渓谷をひたすら下るだけ。安息日前日なので夕食はもしかしたら
豪華かもしれないという期待を持ちつつ歩き出します👇
やっとの事で渓谷を下り終えると、彼方にこの日のベースキャンプが見えてきました。
いやいや今日はしんどかったなとザックを降ろししばらくしていると
急に体がだるくなり体は寒気を感じ始めてきました。
この瞬間、あゝ風邪を引いたなと思いました。こうなればとにかく早くシュラフに入って寝るのが一番と思い誰よりも早く寝ました。
途中、熱にうなされながら悶えていると友達が心配して水や薬を持ってきてくれました。トダラバー!
夜中、何度も起きてゲホゲホ咳き込んだり、水を飲んだりこんなに風邪でしんどいのは
5年振り程でした。
ようやくベースキャンプが見えてきた!
メインの丸焼きも結局一口も食べれず!(涙)
残りあと1日。休むためキブツに帰るか、最後まで歩き切るか迷いながら朝を迎えました。
いよいよ砂漠のトレッキングも最終日。イスラエル最南端の街エイラットでは待っていたものは....次回 Day 4th.へ続きます。
それではレヒトラオート!